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私について(前編)

私について

山田陽介税理士事務所 代表の山田陽介です。

○○を実現させるために福岡市中央区大名に事務所は開所しました。現在、私1人ですが、私の○○に共感してくれるスタッフを少しずつ増やして、ここから○○を追求していきたいと考えております。
(○○については、自己紹介の最後で説明しています。)

これから「山田陽介税理士事務所」をよろしくお願いします。

税理士を必要としている方に私、山田陽介をより知っていただくために、私自身の過去をちょっとだけお話しさせていただきます。



出生
私は昭和50年5月、福岡市役所に勤める父と専業主婦の母のもとに大牟田に生を受けました。その後すぐに福岡市南区に移りました。

給食
私が小学校時代で思い出に残っていることは、給食です。
なぜなら、小学校時代は野菜・果物の全てが苦手という状況でした。
小学校1年生、2年生の時の先生が好き嫌いにはとても厳しかったこともあって、最後の授業が終わっても残している給食が机の上にあることが何度もありました。
食べない私も頑固だなと思います。今でもそんなところはありますね。
ちなみに、今でも果物は未だに苦手です。

監督
私の父が町内の小学生のソフトボールチームの監督をしていたこともあって、私も小学校3年生からソフトボールを始めました。
その頃は、夜にテレビをつければ毎日のようにプロ野球の巨人戦が中継されていた時代ですので、当然に野球が好きで、理由も無く未だに巨人ファンです。
親のコネもあってか、小学校4年生のときにはレギュラーになってサードを守っていました。
小学校5年生になる前に、私がピッチャーになることになり「ウインドミル」という投法の練習が始まりました。この投法は腕を一回転させて投げます。適当に腕をぐるっと一回転させても、ボールは簡単にはまっすぐ投げられません。毎日、毎日、友達と遊んでいても夕方から父とピッチングの練習でした。今思うと、父がここまで練習に付き合ってくれたからこそだと思います。自分が親になってから特に感じましたことですが、ここまで真正面に向き合ってくれたことがうれしいと思います。
父は、私がチームを卒業した後も監督を続けました。最終的には31年間もの長い間続けました。それだけ続けるとたくさんの教え子達が当然にいます、まるで先生みたいな感じです。年1回のOB戦はとても賑やかな一日となります。私自身は、これは相当な地域貢献ではないかと思っています。ボランティアで31年間、土日の練習にこれだけ向き合える人がどれだけ世の中にいるだろうかと思います。表彰ものだと思いますが、父は新聞社からの取材依頼なども断りました。父なりの考えがあってのことだと思いますが、どうしても言いたいのでここで紹介させていただきました。

優勝
小学校5年生のときは、父との練習の成果もあってチームのエースとして奮闘しました。小学校の校区大会(優勝チームは南区大会への出場)は決勝で負けてしまいました。それでも校区のリーグ戦においては優勝。この年は12勝1敗という成績でした。
小学校6年生になると、小学校の校区大会を優勝、南区大会も決勝までの5試合を全て完封試合で優勝しました。

鶏飯
ところが、実は南区大会の前日に大きな事件がありました。
前日は近所の町内での夏祭りが行われていました。祭りの出店で、ねっとりした「かしわおにぎり」を食べて、私は午前3時頃に嘔吐し、救急車で病院に搬送されました。
幸いにも、ひどい食中毒ではなかったので、そのまま試合をすることができました。今考えても、5試合投げ抜いた小学生の私の体力ってすごい!と思います。

痛恨
南区大会の後の福岡市大会は1回戦で東区のチームにサヨナラ負け、とても悔しくて自然と涙が出ました。自分自身、たまにびっくりするくらい負けず嫌いな一面があります。
小学校最後の年は18勝3敗でした。でも、最後の試合を負けて終わったことが悔しく思います。

坊主
中学校へ進学しましたが、私は野球部には入らず陸上部に入りました。「坊主」、野球部に入らなかった理由はそれだけです。どうしても嫌だった…。やはり頑固ですね。
結果的に陸上部に入ったことが、西南学院高等学校へ進学につながりました。

総体
高校時代も同じく陸上部へ入りました。高校2,3年生の時に400mリレーメンバーとしてインターハイに参加しました。高校2年生の時には、全国トップクラスのエースがいるチーム、高校3年生の時には、エースがおらずバトンパスの技術で勝負するチームでした。ちょうどリオ五輪のボルト率いるジャマイカとバトンパスの日本のような感じです。
残念ながら、高校3年生のインターハイでは第4走者へのバトンパスがオーバーゾーンとなってしまって記録なしという結果に終わり、これが最後のレースとなりました。小学校時代のソフトボールの時と同じように、高校時代の最後も悔しさが残る結果となってしまいました。

前兆
勉強の方は、高校1年生の時は成績表が下から4番目でしたが、なんとか西南学院大学の推薦枠に入ることができました。
今思うと、ここで受験の苦労をしていないことが後の挫折に繋がったと確信しています。
ちなみに、私の学年が最後の男子校としての西南学院高等学校の卒業生です。翌年から共学になりました。(入学当初には、私が3年生のときに共学になる予定でした)

挫折
挫折の大学時代、でも自業自得であることは明白。
そんな私でも、入学して最初の英語の授業の予習を真面目にしていきました。ところが、周りはほとんどしていませんでした。なんじゃこら?この瞬間、やる気スイッチが完全に切れました。やっぱり大学は遊ぶところなんだ!と誤解したのです。

泥沼
秋頃にある漫画に出会いました。「頭文字(イニシャル)D」です。どんな漫画かというと、走り屋の漫画です。主人公がAE86という古い車に乗って、速い車と峠で速さを競い合うというものです。
はい、影響されました!すぐ車(三菱 FTO)を買いました、新車で、ローンで。バイトしていたから大丈夫だと安易に、親に「アホか」と言われました。
そして、この車をわずか1年で別の車(日産 R33スカイラインGTS-typeM)に買い換えます。再び親に「アホか」と言われました。その車を速くするために、さらにお金を掛けます、分割で、学生なのに。
結果、バイト三昧の生活となって、学校へもあまり行かなくなりました。当然、留年です、しかも3年も。
まさに親不孝、本当に両親に迷惑を掛けてしまったと思いました。大学7年生が決まったときには、私の方から中退で構わないと伝えましたが、「大卒」と「高卒」との差が少なからずあるからということで、卒業するまで通うことが出来ました。

転機
大学に入学したときには、私は公務員を目指していました。それには特に理由がなく、父が福岡市役所に勤めていたからくらいのものです。しかし、私は留年によって、年齢制限により公務員試験への挑戦する猶予がそれほど残っていませんでした。そんな時に、税理士という職業の話を大学の友人から聞くことになります。
残念なことに、そのときの私は「中小企業の経営サポートをしたい!」のような想いは全く抱いておらず、その友人から「税理士になれば輸入車のスポーツカー(正確には「中古のポルシェ」)に乗れる」と聞いたからです。
その段階では、私は「複式簿記」、「貸借対照表」、「損益計算書」などの会計用語などは全く知りませんでした。
呆れるくらいに単純ですが、それが長い受験生活を支えてくれた大きな要因だと思っています。
ポルシェを買うことが「目標」で、税理士合格が「手段」というのが当時の状況でした。さらに言うと、資格を取れれば安泰だ!とそんな残念な考えしか持っていませんでした。



後編に続く。。。